放置感想32台目 『86』23話の「えごころを、互いに」

■画面構成に制御されてるはずのアニメキャラが画面の世界と観客の現実の境界線を深く踏み込んでいく様に目頭が熱くなった『86』22話。最終回23話は後日談として絵に描いたような穏やかなものだったが、これまでの登場人物たちの「絵心」が集いこれからも紡がれていく予感を確かなものにするために必要な時間だった。

□『86』23話の「絵心」のテーマに気づくきっかけがシンの墓参りで、ユージンの墓前でニーナの手紙の絵封筒に目を向けながら、これからの景色を(演出的なモノローグではなく)素朴に言葉にしていくシーンからだった。ニーナの手紙の絵封筒といえば、前線にいたシンにとってニーナの兄ユージンの喪失を幇助した罪の象徴であったが、絵封筒に描かれた鯨と海はユージンがニーナに「見せてやりたい景色」でもあった。束の間の、境界線を深く踏み超えたレーナとの初見の再会で心のあり方が恢復したシンは、ユージンとニーナ、そしてレーナに宛てた手紙として墓前で言葉が紡がれることで、罪の象徴だった絵封筒の「絵心」が甦るのだった。

□『86』本編を振り返れば「絵心」に関わる描写が度々描かれている。セオは仲間達の多脚戦車のパーソナルマークを描き、スケッチブックでサンマグノリア共和国のハンドラーの風刺画で憎悪を吐き出す一方で、不用意に深く踏み込むハンドラーのレーナによって「絵心」に変化が生まれた。23話ではシンに改めてパーソナルマークの描画を問い、スケッチブックには風刺画のレーナ(白豚)に続いて、白豚に乗ってシンと並走するレーナ、シンが鼻血を出すほど距離が近くて互いに笑っているレーナ、の3枚を描いている。

シンは幼少期の頃に兄レイを絵本の勇者に見立てた絵を描いているほど兄への思いを「絵心」に込めた、という挿話はユージン兄妹、フレデリカとキリの関わりの根幹となっていた。青少年のシンが刻んできた仲間の墓標は苦しみ抜いた「絵心」だ。

フレデリカは日々の記憶を忘れぬ義務も込めて絵日記を描いたりスナップ写真を撮ったりする、「絵心」と共に生きることを幼い身で知っている少女だ。

思考多脚車のファイドはシン達の記録映像という画を蓄積、参照することで生じた「絵心」で人懐っこさを醸し出している。

そして、レーナは顔を見たことない86達を忘れないように人相を想像して描いてきた。23話の壊滅的な共和国で、人々が遺物同然の市内の来客歓迎ポスターに思いを込めて人を描き込む(自国の白銀種でない相貌も描きこまれていた)姿に「絵心」の生きる力の芽生えにほっとするレーナが印象的だった。

■アニメ『86』、本編の過酷な環境と作り手の制作環境の重ね合わせで観てきたけれども、『86』監督:石井俊匡をはじめとする「絵心」を忘れないアニメーションを実現するまでの軌跡に心動かされていたんだなと。